山崎 進
(本学工学部四十年史随想の章に寄稿: 2000年春)

三門やつるべ落つ日を惜しむらむ


メフィストフェーレス(ゲーテのファウストを美に誘い命をねらう脇役)の言を待たずとも、「実りの秋の余韻、そして冬が来る前のたそがれの美しさにひたれ」という誘惑を受ける年令になった。しかし、まだ落日の陽を見て充実感を識るには早過ぎる。コンピュータ科学に興味をもち、言語、定理証明、手続きの複雑さとプログラムの意味論に素養を得、機会があって岡山に赴任した後、計算論理(計算を反映した論理)の立場から非手続き型言語の意味論と非単調推論を研究してきた私にとって、心境はむしろ、春を終えこれから夏を迎える状況にある。夏と秋は極めて短く、空虚のみが残らないように自らの天命を知るべきであう。第六高等学校を引き継いだ総合大学で、西門の横には偉い物理学者の彫像がある環境の中、工学部40年史の今後にいくばくかの貢献をしたいと考えているが、世界の歴史と私の世代の相対的な関係や世紀の変わり目が「夏前である」という心境にさせるのだと思っている。

20世紀は映像の世紀であったという NHK の番組は的を得、映像の背後にある、科学技術、社会の変化、認識スタイルの変遷など興味がつきないが、20世紀は物理の世紀であり、20世紀はコンピュータの世紀でもあったという側面に関心をもっている。人類の自然観、物質観が急変してしまった世紀であった。そして今、科学者は脳の神秘に迫ろうとしている。他方、コンピュータは普遍性をもちながら、自然のごく限られた階層の法則性に関係している。この性格ゆえに、コンピュータの発見、発明、応用は今世紀の知見の一つであった。

プログラム内蔵型コンピュータの発見・発明以降、多くの体系化された計算機構や実際的なコンピュータシステムが実現されてきたが、コンピュータネットワークも含めて計算機構としては同等であるという、チャーチのテーゼが貫徹している。コンピュータは有限ステップで停止しないこともあるばかりか、計算効率の限界を論証できないことがしばしばであるために、経験的に優位とされるシステム、例えば並列コンピュータの効率を立証することも容易でない。さらには、環境の変化に適用できるシステムを構成することはなかなか困難である。一方、コンピュータは汎用の記号処理系で、実現可能性から言えば、人類が知っている最も一般的な機構である。このために、人間の思考や知能と比較してコンピュータの過小評価論(決まったことしかしない道具)と過大評価論(知能を模倣できる原理)があった。いづれもコンピュータの機構がもつ法則に対する正しい評価とは言えない。

コンピュータの動作は、静的な因果関係をたどるという本質をもつが、その複雑度が低くなく、動的なインプリメントを考慮にいれた実験的側面に関する考えも広まっている。それは、応用技術の要求からだけでなく、静的なものと動的なものとの関係に関する認識の方法として提案されている。さらに、形の認識にコンピュータがどれほど有効かという古くて新しい問題にも実験的な側面がかかせない。神経回路論に立っても、コンピュータ(ソフトウェア)の実験問題として接近することが可能になってきている。かくして、コンピュータに関しては、理論的側面のみならず実験的側面から科学性が求められてきている。良きオーガナイザが、コンピュータ科学の実験的な側面を発展させるために、人間行為(行動、コミュニケーションなど)の模倣、社会システムの自動化のみならず、人間の認識方法とそのメディアのための科学技術が今後のコンピュータシステム研究の目指すべき方向であると示唆している。私自身は、この方向の成否を、おいおい見極めてゆきたいと思っている。

「夏」を迎えるにあたって、私は否定情報の意味論や推論を核にしたプログラミングシステムの構造に興味をもっている。今作りつつある理論を基に実験的な側面を展開した仕事もできればと思っているが、と同時に、神経回路が実現する言語解析の構造に、コンピュータ的でない不思議な性格があるのではないかと見ている。幻想かも知れないが、計算機構の向こう側にある「蜃気楼」の実体に迫りたいと願っている。ある知性は、複雑さがあるのみと力説する。複雑さ論者と確定論の私のいづれがファウストでメフィストフェーレスなのか、「夏前」の段階では不明である。